初めまして。
元うつ病経験あり&メタボ現在進行形のはげぱぱ(佐藤)と申します。
現在は サラリーマンと個人事業主を掛け持ちしており
世間ではフリーランスと言われております。
主に 本せどり・情報発信 そして サラリーマン をしております。(2021年現在)
ブログタイトルからこちらのページにいらっしゃった方の中には
「お前は何者だ!」って思われている方もいらっしゃると思いますので
自己紹介をします。
凄く長いので 覚悟の上ご覧ください。
まずは昔話からお話いたします。
Contents
はげぱぱ佐藤のできるまで
・半年で900万円を稼いだ状態から無一文になりその後、病気に苦しむ物語です。
体重 :95kg もうすぐ3けた(2017年)
血液型 :35歳まで O型 現在 B型
(まさかの親の勘違い!35歳の入院をきっかけにB型という事が判明)
せどり歴:およそ2年(主に本せどり←時代遅れって言われます)このブログを書いているのが2017年夏
*現在(2021年 1月現在で 81kg)
出身地 :千葉県 → 住家は秋田県
好きな物:甘い物全般
家族構成は 妻と子供達3名とおじいちゃんおばあちゃんの7人家族
『生い立ち~結婚まで』 第1幕のスタート
1973年(昭和48年) 千葉県の田舎に生まれる。
まあまあ無難な幼少期を過ごします。(良くもなく悪くもなく)
中学校は生徒会に在籍し、運動でも陸上とかでそこそこ活躍し(←自分で言うな!)世間的にも良い子で通る。
高校は地元では進学校と言われるところに入学する
*このあたりまではとても順調
高校入学するも周りの友達が頭良すぎて次第に授業についていけなくなる
中学校から始めた陸上もそこそこのところ(県大会入賞)まで行くが怪我で引退せざるをえなくて断念する
このあたりから、努力だけでは埋められない能力の差という現実がある事をうすうす感じ始める
さらに、何をやってもうまくいかない青年の心は荒みはじめ
ドラマ 積み木崩しの如く(知らない人多いかもw)
両親や学校に反抗するようになり成績もぐんぐん下がる。
周りの友達は大学へ進学していく中
自分はというと
とうぜんの如く大学へも行けず
なんとか、何もしなくても行けそうな専門学校を見つけて進学する。
*ここから本格的に逃げの人生のスタートが始まります。
特にやりたいわけでもありませんでしたが、叔父がプログラム関係の会社をやっていて
『資格を取ったら雇ってあげるよ』 と言われたのでコンピュータの専門学校へ進学します。
1年目に、とりあえずは資格を取得し早々と叔父の会社への内定をもらう
友達は就職活動をして就職先も決まっていたが自分は叔父の会社へ行くつもり
だったので就職活動もやらずにだらだらと毎日を過ごす。
そんなある日、叔父が過労死で亡くなったとの訃報が届く
お先真っ暗とはこういう事かと思うも
このままではニートになる(この頃はニートという言葉はありませんでしたが)
との思いから何故か大学を受験しようと考える
受かりそうな大学を探しあて
そして授業料も安い2部(夜間)の大学を受験しなんとか合格する。
*ここでもなんとか逃げる事に成功する。
とりあえずは4年間は社会に出なくても良い理由ができたので一安心しておりましたが
昼間働いて、夜学校っていざ始まってしまうと想像以上に大変でした。
がしかーし在学中に友人と始めた携帯電話の会社が大当たりして
すごい儲かりました。
学校を休学して仕事にのめりこむ(PHSとか携帯を無料で配ってました)
いままで良い事なかったけど、これで自分にもやっとツキが廻ってきたと
思った瞬間でした。
ヨッシャーって感じです。
かなり儲かっていたのですが事業拡大する野望を抱いておりました。
通帳には事業開始から半年後に借入金も含めてですが
900万くらいあった事を記憶しています。
自分は経営する方の担当
(アルバイトを雇ったり、仕入先と価格交渉(インセンティブ率)したり
アルバイトの教育とか・・・)で友人がお金関係の担当という感じでした。
もう少ししたらでっかい事務所を構えて人も、もっといっぱい雇ってと考えている矢先
友人が預金通帳を持ち逃げして失踪してしまいました。
はじめは何が起こったのかがよくわからない感じでしたが
そうこうあたふたしているうちに、運転資金にいきずまり
アルバイトの人にも給料を払う事が困難な状況になり失踪後たった2ヶ月後で廃業となりました。
(廃業したという方が正解かもしれません。結局自分も逃げる様にその業界からは離れました)
銀行から融資をもらうとか色々と対策方法はあったのですが
思考停止状態になり、やる気を失いました。
加えて、自分が若かったせいもありますが 周りの大人の対応が手のひらを返した様に厳しくなったことも伴って 攻めの姿勢がとれませんでした。
楽しい生活から一転、借金も抱える事になり
この時から数年間 人間不信に陥ります。
もう誰も信用できない・・・・
*ここでも色々な問題から逃げます
今思えば警察にとっ捕まえてもらえば良かったと思っていますが
半年くらいは、何か事情があったんだろうと友人を信じて待っていました。
きっと帰ってくると・・・・ 自分は裏切られてはいないと・・・・
結局は自分のところへは友人は現れませんでした。
一旦上がったところから奈落の底へ突き落された感じがして
こういう状況になると、人間何もやる気が起こらないものだとつくづく感じました。
とにかく借金を返さないといけないので大学は休学したりして、
生きていく事で精一杯でした。
そんな事もあり大学へは通算6年間在籍しましたが結局は中退してしまう事になります。
結局最終学歴は高卒なので就職活動をしてもなかなか厳しい状況ではありました。
何をやっても続かなくて逃げてばかりのダメな人間でしたが
大学の時にたまたま出会った女性とお付き合いする事ができました。
その後、彼女とは4年間の交際の後結婚する事になりましたが
彼女は実家を継ぐ(美容師さん)事を決意。
私は長男でしたが、いろいろと考えた末に婿養子として嫁ぐ事にしました。
こんなだめだめな私でも結婚してくれる人がいるんだとその時は妻に感謝したのを今でも覚えています。
この時妻に借金している状態でした。チョーダメダメ人間ですね。
『結婚~サラリーマン』 第2幕のスタート
妻を幸せにするという目標ができたので
ここらで逃げの人生からはなんとか抜け出さないといけないと思いはじめます。
余談ですが
嫁ぎ先が東北の田舎だったので最初の1年くらいは言葉が理解できずに苦労しました。
ほんとに外国語を聞いている感じでした。
こう書くと馬鹿にしてるのかとお叱りを受けるかもしれませんが
ほんとに日本語か?と思うような状態でした。
夕飯の家族団欒の時なんかは奥さんが通訳してくれました。
現在では関東出身ですと言うと
「うそでしょ!」
って言われるくらいに訛ってます。
嫁いでからの人生フロー
パチンコ屋の店員 (1年位)26歳まで 言葉の壁を乗り越えられずに転職
手取り 10万くらい 契約社員でした
↓
営業(携帯電話とかを売ってました) (1年位)成績不調でクビになる 27歳まで
昔取った杵柄っていう感じで入社しましたが、結果は散々でした。とても落ち込んだのを今でも覚えています。
手取り 12万くらい 契約社員
↓
知人の紹介でまったく経験がなかった分野に就職
測量補助のアルバイト → 設計補助(土木設計)3年半 30歳まで
手取り 14万くらい アルバイト→契約社員
この時点でもう30歳になっていました。
↓
小さな土木建設会社(従業員5名程度) 1年半 安い給料で苦労するもスキルを磨く
手取り 15万くらい 日雇い
↓
地方のゼネコン会社へ転職 このとき33歳 培ったスキルをもって転職→結果採用
手取り 20万→30万 正社員
家庭を持ってからは仕事を転々としながらも
年々給料がUPする生活をなんとか送りました。
正社員になった時は33歳でした。
ここでやっと一人前になれたかなと思いました。
地方のゼネコン会社へ入社後は大きい工事にも携わり
やりがいのある毎日を送っていました。
仕事の内容は建設するうえでの管理する役回りだったので
肉体的な辛さはありませんでしたが
精神的にとてもキツイ仕事でした。
よく 現場代理人とか監理技術者とか言われる立場の人です。
↑皆の前でしゃべっている人です
毎日充実した日々を送って送っておりましたが
入社して4年くらい経った時に国道を整備している現場で現場責任者の立場にいる時に
言葉がうまくしゃべれなくなったり(会話の途中でつまる)
手がしびれてうまく動かせなくなったり
人と会話するのがとても困難になったりしました(とても苦痛)
なんか普通じゃないので、何かの病気ではないかと思い病院へ行くと
最初は内科へ案内されました。
いろいろな検査を受けましたが特に異常はないとの事との事でした。
自分「先生、でも言葉がうまくしゃべられなくなったり 手がしびれたりするんですが・・・」
というと 脳外科の方でよく調べてもらった方が良いですねと言われました。
仕事も忙しかったため数日後にまた休みをもらって今度は脳外科へ行きました。
脳外科ではMRIを撮影した上で後日診察結果をお伝えしますととの事で
また後日休みをもらってその結果を聞きに行く事に・・・・・
先生「特に異常は見受けられませんがもう一度どの様な症状がでますか?」と聞かれ
自分「言葉がうまくしゃべれなくなったり、手がしびれたり、朝起きれなかったり」
先生「うーん 悪いところはないんだけれども・・・・ 一応精神科へ行ってみて
下さい」
自分「精神科って?? どこが悪いんですか??先生」
先生「一応今日予約とっておきますので看護師の指示に従って受診してください」
自分「わかりました」
精神科って 自分どうしちゃったんだろう?
不安しかありませんでした。
奥さんや家族にどう伝えれば良いのだろう?
その日は家に帰る事ができませんでした。
そして、看護師さんから指示された期日に精神科を受診しました。
そしてその時に 「うつ病」 と診断されました。
先生はたぶん次の様な事を言った様に記憶しています
先生「働きすぎだと思います。できるのであれば1ヶ月くらい休んだ方が良いです。
診断書を出しておきますので早めに休みを取って下さい。
このままの状態だともっと悪化しますよ」
自分「休むことは難しいと思うのですが薬を飲めば改善しますか?」
先生「その保障はできませんので休んで下さい。生活保障はされるはずですから・・・」
そして見慣れない薬を渡されそれを飲むように指示されました。
渡された薬は トレドミン という セロトニン・ノルアドレナリン再取込み阻害薬
毎日朝晩1錠ずつのみましたが
改善された感じはしませんでした。←個人の感想です。
後日、診断書を持って専務へ相談しに行くとそのまま社長室へ
社長に診断書と内容を告げると
社長「今の現場の事はこっちでなんとかするからゆっくり休め、専務あとはたのんだ・・・」と一言
いろいろ周りの仲間に迷惑をかけながらも責任者を交代して自宅療養する事に
そして・・・
自宅療養開始して1週間経過した頃から顔面の左側に違和感を感じ始めた頃
ある夕飯時におみそ汁を飲んでいる時に口からダラリと汁がこぼれました。
左眼も家族から見たらウインクしているみたいな感じで何か変だよとの事
やっぱりなにか脳の病気なのかと心配になり救急で病院へ
そして診断されたのは 「三叉神経麻痺」との事でした。
うつ病+三叉神経麻痺 この時1ヶ月くらい入院します。
ここで血液型がO型ではなくB型である事を知る。小さい頃から勘違いし続けてました。
後遺症として左側の耳の聞こえが若干悪くなりましたが、発症してからすぐ入院し対策をとったので生活に支障をきたすまでにはなりませんでしたが
対処が遅くなると難聴となり、最悪の場合はまったく聞こえなくなる場合もあるそうです。
のぼり調子になっている時に限って何かいつも悪い方向へ
自分って そういう人生しか送る事ができないのかな?とも思いました。
しかし、生活していかなければならないのでしばらく休養の後また
会社へ戻り同じ業務へ付く事になりました。
幸いにも勤めた会社の社長さんをはじめ経営者の方々に恵まれて病気から復帰した後も
色々と配慮していただいてその後も退職するまで様々な仕事に携わる事ができました。
うつ病も克服し、このままこの会社で骨をうずめる覚悟でしたが、40歳を過ぎた頃には
長男も思春期となり、いろいろと難しい時期になっていました。
病気から復帰したあとは、汚名を返上するべく今まで以上に働きました。
しかし、自分はいつも仕事へと逃げては妻に息子をまかせる状態になっていたので。
親子関係やら夫婦関係は荒んでいきました。
一時期は離婚も考えた時期もありました。
これも向き合うことから逃げた結果ですが・・・・
「俺ががんばっているのに何でわかってくれないんだ!!」
っていつも思っていました。
人生の折り返し地点を過ぎた頃にはこんな人生で良いのだろうかと思う事が多くなりました。
人から使われる人生は楽だけれども何かもう一度自分でやってみたいと・・・・
逃げない人生を送りたいと・・・・
そして家族を本当の意味で幸せにしたいと・・・・
2年くらいは考えた気がします。
『独立』 第3幕のスタート
そして、ある日 妻にこう言いました。
自分「会社辞めてオレ自分で事業始める。
もっと家族との時間を大切にしたい。
そしてお前たちを幸せにしたい。」
あとから思えば結構はずかしい事をまじめに言ってました。
妻「あなたこうと決めたらやらないと気がすまないんでしょ」と一言
*後から聞いたらとても不安だったそうです。
今は毎日生き生きとしてる私が大好きだそうです。
そして仕入れの時は不在なので、適度に不在 そんな距離感も逆にいいみたいです。
こんなわがままで自己中の人間にはできすぎた奥さんです。
こうして42歳の誕生日を迎える1ヶ月前に長年勤めた会社を退社しました。
現在は主に東北地方を中心にあちこち観光や食べ歩きなどしながら「せどり」
をおこない家族を養っております。
ちなみに「せどり」とは主に古本屋さんなどでネットショップとの販売価格に
差がある物を探してその利ザヤを稼ぐ事をいいます。
または、「本の転売」ともいいます。
始めた当初は色々な転売を行ってきましたが、なかなかうまくいかない期間が続きました。
色々な情報商材を購入してみたり
コンサルを受けてみたり
当初あったお金は どんどん無くなっていき
これはもうだめだ!って思った時に 残ったのが 今の本せどりです。
『晴天の霹靂』 第4幕のスタート
独立したての頃は、ほとんど稼ぐことができず
最初の月は 利益8000円っていう状況でしたが
その後、なんとか諦めずに コツコツと継続をしていったところ
本せどりと情報発信でなんとか家族を養っていけるだけのお金を得る事が出来る様になっておりました。
この時点で既に5年近く経過しておりました。
本せどりで失敗をリカバリーして
そして情報発信でも コミュニティを企画して たくさんの方と繋がって
本せどりを どんどん追及していきました。
中でも私のYoutubeでアップした
「 ブックオフだらだら仕入の動画 」はごく一部の方に受け入れられた事もあり
はげぱぱ佐藤とググってみると 検索にヒットするまでにもなりました。
そんな状況に有頂天になり、全国あちこちにあるブックオフさんに仕入に行くっていうのが
ライフスタイルになっている状況でした。
そんなある日の事
とても大切に思っていた奥さんから
「 もうあなたにはついていけません 」と宣告されました。
簡単に言うと 離婚宣告です。
晴天の霹靂とはこういう事を言うのでしょうね
でも、良くいままで我慢してきたな 後になって後悔しました。
今まで自分のやりたい事をやってきて
色々と失敗してしまったけど、やっとゆとりをもった暮らしができる
そんな風に思っている
まさに そんな時でした。
私が 1か月のうち 自宅にいるのが10日程度(下手をすると1週間もいない時もありました)
旦那が不在の中、自宅で私が沢山買ってきた本を 自分の仕事の合間にせっせと掃除して巻いている日々
一方旦那(私)はあちこち観光したり美味しい物食べたり
そんな動画をアップしながら
何かあれば ラインで○○しておいてーとうい指示を出すだけ
そんな状況が数年続けば、そりゃ言いたくもなるでしょう!
私も寝る暇を削って ブログ書いたり動画投稿したり
そして、お金を生み出していたので
え? なんでそうなるの? っていう思いが一番最初にありました。
冷静になれば 奥さんが離婚を切り出した理由はわかるのですが
がむしゃらに頑張っていた自分には
あの時と同じ
「俺ががんばっているのに何でわかってくれないんだ!!」
そんな気持ちで奥さんと向き合っていたのかもしれません。
正直自分は呪われているのか?
そんな風に思った事もあります。
あー 自分は不幸だ! と周りのせいにして片付けて
その場から逃げ出していたかもしれません
でもそれじゃ、今までの人生とまったく変わらん!
そんな風にも思いました。
逃げちゃダメだ! 逃げちゃダメだ!
ちゃんと向き合おう!
いろいろな葛藤はありましたが、
まずは、奥さんの要望を全部飲んでみる事にしました
そして
もう一回やり直してみよう
そこで、本せどりをかなり縮小して 別の方法を考える事にしました。
色々と考えながら行動していく中で、現在 サラリーマンをしながら 本せどりをしているという状況で落ち着いております。
かなりはしょってしまいましたが
何が言いたいかと言いますと
自分の様な失敗はしてほしくない
というたいそうな建て前の元
情報発信でお金を稼ぎたい!という思いは今でも持っております。
ただ、詐欺まがいな発信もしたくないし
現実の厳しさも踏まえた上で 誰かの役に立ちたいという思いもあります。
そんな思いもあって、たまに何のメリットにもならないようなお話もします
情報発信者の不都合な真実の様な事も発信してます
人生 山あり谷あり
でも、失敗してもやり直しはいつからでもできると思っています。
まだまだ 道半ばです。
このページに辿りついてくれた方の中には
これから副業で稼ぎたいなと思っている方や、何かで起業したいなと思っている方
そして私と同じような想いを抱いている人のお力に少しでもなれればいいなーと思っております。
そのための情報とかも今後ブログでお伝えできればと思います。
という事で、ここまで長々と読んでいただきありがとうございました
良かったらのぞいていってください。
ではでは・・・